書道クロニクル1
書道クロニクル 文房四宝
           
清玄ホーム
再び書道へ
機械的なものを求めて
エーカンの原理を求めて
理論に基づく書に出会って

 
 私が再び書道を始めたわけ            

 私は幼い頃、字を書くのが、いや自分の字を見るのが大嫌いだった。理由ははっきりしていた。
とげとげしくて、幼稚な字だったからだ。見るたびに何て下手なんだろうと思っていた。
今思うとけっこう完全主義者だったのだ。ある日の夜遅く重大決心をした。このままでは一生自分の「字の呪縛」から逃れられない。早急に何とかしなくては。それには誰かに「習字」を習うことが必要だと。

 そこで、親をくどいて書道教室に通わせてもらうことになった。恐る恐る毛筆の教室に通っている友達のあとについて行った。習字の先生は背筋の通った白髪の老人だった。その頃にしてはなかなかハンサムだった。

 「お願いします」と頭を下げてからから先生の手本を真似て書く日々が始まった。きちんと正座して、1時間ぐらい練習した後で、課題を清書した半紙を持っていき、朱の筆で添削してもらう。普通の生徒はは直してもらった字をもう一度練習するのだが、私は繰り返しがいやで、しかも根気がなかったのだろう。すぐに「終わった」と納得して帰り支度を始めていた。添削された字を繰り返し練習することはなかった。家に帰れば他ごとが待っていた。こんな
ことで字が上手になるのだろうか?と思いながらも、相いも変わらずの日々がだらだらと過ぎていった。

 年月が流れ、書道会の昇級試験を受けて「級」は上がっていくものの、上手くなった感じはしなかった。水溜りにひと粒やふた粒の雨が落ちたところでほとんど変化がないのと同じことだと感じていた。即効性がないとやる気がうせてしまうのだ。二、三段階一気に上達すれば事情は変わっていたと思う。

 そのころ小学校で展覧会応募の話があり、クラスで私が選ばれたのだが、適当に書いて出していたので、いつの間にか他の子が代表で書くことになった。担任の教師は「申し訳ないが彼に頼むことになったのであきらめてくれ」と言ってきた。自分の目から見ても彼の方が上手だったので「いいですよ」と言って役を替わった。そのときは特に何も思わなかった。目立ちたくなかったかもしれない。

 そして、何も目指すところがなかったのだ。競書誌に作品が載ってもあまり繰り返してみたことがない。今思えば欠点が目立つ自分の字を見るのが嫌だったし、何より「繰り返し」が嫌だったのだ。でも、現実は繰り返し練習なしに上手くなるわけがなかった。誰かが耳元で優しく言ってくれればよかったのだ。

 「3ヶ月我慢しなよ。そうしたら信じられないほど字が変わるから!」

 誰も何も言ってくれなかったので、小学校を卒業すると同時に書道教室もやめてしまった。そのとき書道二段だった。といっても少年部門なのでたいしたことはない。四段や五段の子が周りに何人もいたからだ。私と違って、彼らは熱心に書いていた。どうしてあんなに熱心に書けるのか不思議だった。ひょっとして、それで何かいいものをもらっているのだろうか?この謎は解決できないまま次のステージが幕を開けた。
 


 機械的なものを求めて!

 中学、高校と意識的にいろいろな字体を作っていた。当時の「備忘録」を見ると、斜体を使った字や丸字に近いもの、平体、やたらハネ、ハライの多いものが混在している。なぜ備忘録があるかって?それは、中学のときから「この世界に関する情報」を蓄積するために備忘録を作っていたからだ。だが、その字はどれも満足する字にはならなかった。これはどうも根本的に改造しなければよくならないと思った。
 しかし、「根本的に何を、どうするのか?」と問われると、全く答えを持っていないことに気がつかざるを得なかった。

 心理的なものはすぐに変化する。一方、機械的なものはすぐには変化しない。金属疲労で破断するまで大丈夫だ。バイロン卿の言う「心は心臓より長持ちする」なんてロマンティックな幻想に過ぎなかった。「機械の心」があればそれは可能になるのではと思った。しかし、機械の心なんて手に入るはずもなかった。アトムじゃあるまいし。

 そのとき、「機械の心」は手に入れられないけれども機械的な方法はあるのじゃないか?と思いついた。要は繰り返しを拒まず、正しい方法で(しかも最も効率よく)訓練できる機械があればいいのだ。

 機械は繰り返しを拒まない。コンピュータだってそうだ。人間とは時間体系が異なるだけだが、単純な繰り返しをなんとも思わない。そう機械には「心」がないから。そうだ。機械的な装置か器具があれば飽きずに矯正ができるじゃないか!これは素敵な考えに思えた。

 その頃は、ペン字や毛筆がすぐに上手くなるというたくさんの広告がたくさんあった。みんな同じ悩みを持っているのだ。みんな自己憐憫に陥っている。だが、それは少しも慰めにはならなかった。そう思って広告を見ていると器具を使ったペン字の上達法を見つかった。この器具を使うに当たっての脳機能の理論も説明されていた。器具+理論、これは最高だ!というわけで、機械を使った矯正がを試みることになった。



 エーカンの原理を求めて!

 日本エーカン普及協会が出している「手・脳のトレーニングとエーカンの原理」という冊子を入手した。この著者は医学博士の宮城音弥氏と佐藤敦彦氏だった。この冊子(非売品)によれば、手・指・脳・心の働きには強い相関性があるという。従って、手・指を効果的に使うと脳に働きかけることができ、活性化した脳は逆に手・指に情報を送り返すというフィードバック効果をもたらす。この効果的な働きかけの例として「タマゴをつまみ上げるとき」をあげている。

 では、それを実現するにはどういう器材を用いるのだろうか?

 エーカンの実物を求めて!

 手・脳訓練器「エーカン」でトレーニングすると小指球が自然に発達してしっかりした美しい字を書くことができるという。国際特許(日・米・英・仏・独・伊)品だ。
※(小指球)は、字を上手に書くときに、拇指球と力を合わせてある種の役割を演じるという。

 この器械を手に入れればすぐにでも字が上達しそうだった。早速、器械を申し込んだ。手の握り方の癖を直す「ヨナール」もついており、長時間書き続けると手が痛くなる現象もおさまりそうだった。カチャ、カチャとエーカンを鳴らす日々が続いた。字は確かに変わり始めたのだが、同僚の女の子にこんなことを言われた。

「私は前の字のほうが好きだったな」と。!!

 これはかなりショックだった。前の字のほうがよかっただなんて!さらに別の女の子からは「自分で好きなように字を変えているんだからいんじゃないんの」と言われてしまった。

 結局、字を変えるためには、基本的な部分をおさえなければならないことを再発見した。上手く見せようではなく、正しく気品を持って、魅力ある字を書かなければならないのだ。


<理論に基づく書に出会って!>


 結局、いくら手が動いても字がうまくなるわけではない。修練した者にかなわない。これではだめだ。せっかくエーカンで訓練した指先も生かせない。こんなときに書道の機関紙で角度を守って字を書くという何とも変わった手法の記事を読んだ。最初は分度器で計りながら書けるわけがないと思った。誰でもそうだが、新しいものには拒否反応が先に立つものなのだ。

 しかし、新しい物好きの私は本屋に立ち寄った際、ついその理論の著者の本を探しているのだった。小林龍峰という名の書道家だった。後で知ったのだが、これから先の課題となる「文部省認定 硬筆・毛筆書写技能検定の中央審査員の先生だった。
 この先生の理論によれば、すべての字は(漢字、かな、カナ、数字、ローマ字、アルファベットにはそれぞれ適した角度というものがあり、その角度を守れば、字は自然に整備されてくるというものだった。これにはなるほどと思えるものがあったので、早速この方法で練習開始。15度、30度、45度、70度、90度、120度と呪文を唱えながら書いてみた。字は固くなるものの一定水準で字がまとまってきた。ということでこの方法を続けることにした。

 しばらくすると、この字の形に飽きてきたので、また本屋に通うことになった。

<1級の手本に出会う>


 「書検ニュース」という機関発行誌がある。これは硬筆書写・毛筆書写検定を主催している協会が発行しているものだ。ここには、検定の結果とか、技術的な指導のほか、いろいろな書道協会や出版物の紹介が載せられている。
 「美と書の出版社」に硬筆・毛筆の1級用手本が販売されているのを知って、早速電話をかけてみた。すると電話に出たのは老人の声だった。事務員がいないところを見ると個人経営の出版社だなと思った。件のものについて聞いてみることにした。
「文部省認定の硬筆書写と毛筆書写の1級の手本を販売しているという広告を見たのですが、ありますか?」
「ああ、あるよ。いるのか?」
「はい、今度1級を受験しようと思っているので」
「そうか、じゃあ、それぞれを100枚ずつ書きなさい」
「百枚ですか?」
「当たり前じゃ」
「何か注意点はありますか?」
「100枚書けばわかる。とにかく手本のとおり書けばいいんじゃ」
「そうですか」
「いらんのか?」
「いえ、いります。現金書留で代金を送りますから、手本を送ってください」
 こういうやり取りがあって、手元に手本が来た。たぶん今では手に入らないだろう。それにあの電話口に出たのは江守先生本人だったと思われる。ずいぶんと気さくな人柄だと思った。
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 後日送られてきた「1級手本」を見てみた。間違いなく江守先生の字であった。検定対策用に過去問題を例題形式で書いている。今までよく見た字体だった。まずは硬筆なので、練習用の升目学習帳を用意して書き始めた。この升目で書く方式を江守先生は勧めていないが、小林先生なら許しくれるだろうと勝手な妄想を膨らませながら、朝早く起きて書き始めた。朝早く起きるのはつらい。胃がむかむかするがそうも言っていられない。とって何ぼの世界への挑戦だからだ。

 書の上達の基本は「大きく書くこと」なので、とにかく大きな升目に書く練習をした。漢字練習帳は本当に大きく書くのに適している。升目が入っているので中心が取りやすいし、偏や旁の角度も出しやすい。後で知ったことだが、安易な枡を使った練習を江守先生は否定している。まあ程度問題だろうが。試験日は迫っており、とにかく書かないことには上達しない。毛筆も架空で練習していると何とかなると思っていたが(実際に書かないでなぞる)やはり書かないと筆使いは上達しないようだとわかった。
   
 <いろいろな書体に出会って>

 書店に行くと、様々な種類の硬筆や毛筆の書き方練習帳から手本・法帖帳まで揃っている。悲しい定めで自分の好みの書体というものが存在する。いくらかっこよくてもこれは無理、と敬遠するものもあるし、全く理解できないものもある。私は字を絵としてとらえることに異論は唱えないが、それを作品として書くとすれば別の話だ。

・字体を教えるときにはこの字の元字はこの字だからこの雰囲気を崩さずにとか何とか言っている。
 
 当時、私が手本にしたいと思ったのは狩田巻山氏のものだった。この人の字は全くの正統派という感じがする。完全すぎると思うこともある。でも、古典を勉強している人ならこの人の字を真似てみたいと思うだろう。私だってそう思った。才能が足りないせいか、あまりうまくいかなかったが………。
   
<1級の心になる>


 どうすれば、自分におけるレベルの高い字が書けるのだろうか?普段の自分の字は適当な字なのに見本の字や作品を書くときには自分の普段の字体とは違った大人の字が書けるのはどうしてだろうか?その解答に気づいたのは専門学校勤務の時だった。

 専門学校で情報処理を教えているときに、C言語のファイル処理に躓いて、どうしょうかと思っていた。幸い、そこに居合わせたのが学生時代にC言語やパスカルを得意にしていた女性教師だった。それですぐに「ここを教えてもらえる?」と尋ねた。そうしたら彼女はこう言ったのだ。
 「じゃあ、これからC言語マスターに変わるからちょっと待ってね」。

 この言葉を聞いて、鈍い私もやっと気づいた。そうなのだ。何かか解決するときには専門家の心にならなければならないのだ。1級の字を書くには1級の合格者の心に、賞状を書くときには賞状技法士の心に変貌しなければならないのだ。

 人はたくさんの「ペルソナ(仮面)を持っているが、訓練を通じて何段階かの自分を構築しているのだ。だから、ぶつかっている現実に対応する自分を呼び出せばいいだけのことなのだ。

 でも、呼び出し方が分からない?では、まずそれ(呼び出しの訓練)をやってみたらいいだろう。
 

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